私が子供の頃
母は私が志村けんのバカ殿を見るのをとても嫌がり禁止しました。
こっそりチャンネルを合わせても
消音にしてみようとも
見つかればすごい剣幕で叱られるのです。
母「お母さん、この番組嫌いだから本当にやめて」
次の日学校に行けばみな志村けんの話題で持ちきりでした。
わたしは友達の話についていけず、一人こっそりこぶしを握りしめるのです。
大人になった私は志村けんのバカ殿が嫌いだった
・今までちゃんと見たことない・大人になって見る機会があったけど笑いどころが分からない
・変顔、丸出し、おバカ行動
・子供には見せたくない
わたしは志村けんのバカ殿がどちらかというと苦手です。
ずっと母に禁止されてたものを大学生になって見たとき、正直「こんなのものか」と肩透かしを食らったような気がしました。
同時に、見てはいけない!そう言われ続けたのもあって心のどこかで楽しみちょっと。
背徳感、絶対的な悪。そんなイメージが大半を占めていたのかもしれません。
とにもかくもわたしは今、絶対的に子どもに「バカ殿」を見せられないのです。
「ママ、この番組嫌いなの。」
私は、わたしの母と全く同じことを今娘たちに言っているよう気がします。
親と教育は子どもにダイレクトに伝わってしまう
きっとわたしが子供の時にバカ殿をみてたら・単純におかしかった
・下品さもツボにマッチして余計に面白かった
・お友達と話す振り返りはなにより盛り上がった
こんなことはお外でやっちゃいけない。
羽目をはずすバカ殿を反面教師にして学びになったこともあったでしょう。
幼少期、母にバカ殿を禁止され続けたわたしは、
・単純な笑いが分からない
・下品の敷居が低い
・悪いものは悪いとすぐ決めつけてしまう
バカ殿を見せてもらえなかったことでよくも悪くも、未経験なくせに結果を決めつける癖がついてきたように思えます。
「(なんとなく)ママが嫌いな番組だから見ちゃダメ」
「(将来役に立つはずから)大学には必ず行きなさい」
「(安いから)こっちのほうが可愛いよ」
「(ママは昔こうなりたかったから)あなたは〇〇しなさい」
子供にとって親は絶対的な正義です。
お友達よりも、親戚よりも、先生よりも、
毎日身近にいる親のいうことが信用できる答えです。
思惑で
軽い気持ちで
子を思うが故の誘導で
子供の興味の根を切ってしまったことはないだろうか。
悪いことをしないように事前に言いすぎてしまうことはないだろうか。
自分がなってほしい理想像と子どもの興味がミスマッチしてることはないだろうか。
わたしは子どもに将来失敗しないでほしいけど、失敗したらどうするかの術は何も教えてやれてません。
誘導よりも経験で学ぶ答えは偉大
いたずらをしない子供は悪さのボーダーを知りません。
イヤイヤ期のない子供は自分の好き嫌いがわかりません。
転んだ経験のない子供は起き上がり方を知らないし、傷ついた経験のない子供は人の痛みに気が付いてやれないものなのです。
我が子には幸せになってほしい
間違った道を歩んでほしくない
そう思うが故に無意識に禁止する何かが子どもの学びの根を摘み取っていることもあるかもしれない。
娘「なんで観ちゃダメなの??」
バカ殿を見ようとする子どもの質問に、ちゃんと見たことないわたしはうまく答えることができないのです。
未経験なことを決めつけることはしないでおこう
子供には自分で良し悪しを判断する能力を身に付けて欲しいし、
失敗しても持ち直す強い精神力をもってほしい
今更だけど、
バカ殿だけど、
わたしは今までの決めつけ子育てを反省しました。
親と教育とは残酷なもので
子どもにとって親の答えは正義に直結してしまいます。
実はその過程に答えがあることを教えてやらなくてはいけないはずなのに…。
終わりに
決めつけをやめて振り返りたい誘導をやめて寄り添いたい
つまずいたときは示すのではなく一緒に立ち止まりたい
難しいけど、少しずつ始めてみようと思います。
子供の笑いの沸点に一緒に笑いたいし、
「これはあかん。マネしないどこ。笑」って全貌を知って子供に気づいてほしいモラルもそこにある
不思議だけど
「バカ殿」大好きな夫は、冷静沈着で誠実な人柄が取柄の真人間なのです。
理解できないけど、未経験に足を踏み入れる
無表情で「バカ殿」を見る今のわたし。もれなく現在成長中。